路面電車

路面電車の歴史やシステム、世界格好の路面電車について。

路面電車の歴史

路面鉄道は元々は都市内の馬車鉄道として生まれ、1840年代に欧米各地に広がっていった。

その後、動力を馬以外にする試みが行われ、蒸気機関などもあったが、電気動力がもっとも普及した。これは1879年にドイツの電機会社、シーメンスがベルリン博覧会でデモンストレーション走行させたのがはじまりで、電気は3本目のレールから供給されていた。1881年にはベルリン郊外で試験運行が開始され、1883年に定期運行が始まっている。

1881年には、同じくシーメンス社が、パリの電気博覧会で架空電車線方式を試み、1884年に登場したフランクフルトの路面電車で採用され、その後ヨーロッパ各地に広がっていった。

アメリカ合衆国では、電気軌道(路面電車)は1886年アラバマ州モントゴメリー[7]やペンシルベニア州スクラントン[8]に敷設されたのを皮切りに、各都市で普及してゆく。特に同国では、専用軌道化や運転速度の向上などシステムを高度化し都市と都市を結ぶインターアーバンにも発展し、1920年代に全盛期を迎えた。

しかし、同時にその頃、自家用車の普及に伴い、多くの都市で路面電車廃止の流れも始まった。1970年代初頭には、路面電車や郊外電車(インターアーバン)は全盛期の4割が廃止され、残存していた6割もゆっくりだがマンネリ化が進み、「世界最大の路面電車保有国」の地位をソビエト連邦(ロシア)に譲っている。

欧州の一部でも第二次世界大戦後までにこの流れでロンドン、パリなどの都市で廃止された[9]。一方で、旧ソ連と東欧諸国、そして西ドイツでは、第二次世界大戦後も路面電車を活用した。

西ドイツでは、車の普及により、路面電車を導入していた都市の半数では廃止されたが、重要な都市内交通手段として位置づけ、連接電車の投入や運賃の収受に信用乗車方式を導入するなど、輸送力増強と生産性向上に努めた都市も多い。路線網の再構成も盛んに行われた。

また、郊外への路線延長を図る一方で、渋滞に影響されずに高速で走り、定時性を確保するため、専用軌道を確保し、都心部においてはさらに地下化を推進した。この方式はシュタットバーンと呼ばれている。 このシュタットバーンは新交通システムの開発で行き詰まっていたアメリカ合衆国に影響をあたえ、1970年代に入り、連邦交通省都市大量輸送局によってライトレール (LRT)という言葉が定義される。

フランスでは、1980年代後半より、上記の「シュタットバーン」や「ライトレール」化の流れではなく、路面電車に対する新たな取り組みが始まり、後に欧州大陸諸国にも広まった。日本では路面電車の次世代化などと呼ばれる。

 

参照:Wikipedia路面電車